『口唇口蓋裂を共有するということ』前編 ~Leonine interview vol.3
- 2018年11月14日
- Leonine
各地で精力的に開催されている、小林えみかさん率いる『笑みだち会』に参加させていただいた時、ご自身の体験談をお話しくださり、とても大変な体験をされてきたにもかかわらず、本当に優しく明るい笑顔で接して下さったスタッフさんがとても気になりました。そのスタッフの早井恵里さん(以下恵里さん)に、お話しを伺いました。
ーー色々お伺いさせてください! まずは自己紹介をお願いいたします。
恵里:早井恵里と申します。
昭和57年生まれ。京都府生まれ。中学、高校は滋賀県大津市で過ごしました。
両側完全口唇口蓋裂で、京都大学医学部附属病院形成外科で一色医師のもと治療受けました。
主治医が大学を引退後は木津川病院にて何度か手術を受けました。
最後の手術は15歳の中学3年生の時の修正手術。
骨移植や骨切りは当時まだ主流ではなく受けておらず。
今も瘻孔が残り空気の漏れがあります。
15歳から高等学校厚生学科衛生看護科へ入学し看護師の道へ。
20歳の時に看護専門学校を卒業し看護師となり東京へ上京。
1度地元へ帰り仕事をしていたが8年前より再度東京へ戻り現在は高齢者医療の分野で
メディカルに特化した有料老人ホームで看護師として仕事をしています。
31歳の時に若年性子宮体がん、子宮頸部高度異形成と診断。
MPA療法の後、卵巣と子宮を全摘出の手術を受けました。
術後の抗がん剤治療は選択せず現在は定期的な受診で経過観察をしています。
ーーありがとうございました。早速ですが恵里さんは小林えみかさん率いる
『笑みだち会』のスタッフをされていらっしゃいますが、
どういったきっかけで参加されるようになったのでしょうか?
(笑みだち会の記事はこちらhttp://leonine-clap.org/emikakobayashi/)
恵里:えみかさんを知ったのはテレビ番組の『仰天ニュース』です。
その後SNSを通じて何度かお話をさせて頂くようになりました。
テレビを見た時に、えみかさんの勇気と覚悟に感動したのを覚えています。
その後東京で笑みだち会が開催される時に東京で事前に準備するものなどを手伝ったり
何か話をして貰えないですか?と言っていただき初めて参加した時にはスタッフでした。
ーーえみかさんの勇気と覚悟というのを感じたのは、世間へ自身の疾患のことを公開したことですか?
当事者として共感がありましたか?
恵里: そうですね。同じ当事者としてメディアに出るということは本当にすごく勇気と覚悟が必要であると思います。
えみかさんがTVに出て下さったことで周りの人が私の病気を知ってくれるキッカケにもなりました。
今でも本当に心から尊敬していますし感謝しています。私には出来なかった。
ーースタッフとして参加されたのは自然な流れのようですが、
地元東京の1回だけのお手伝いでなくそれからも各地で長く続けていらっしゃいますよね。
恵里:それは、関わっていく中で3つの想いが生まれたからです。
1つ目は、
私の母は精神的に弱く友人も少なく当時はスマホもありませんでしたから
仕事が忙しく中々帰ってこない父親には頼れずに
2つ年上の姉の子育てと同居する祖父の介護を抱えながら私を育てなければならず
きっと考えられない程の不安と孤独を抱えて心を壊してしまいました。
そんな母を身近に見てきたからこそ
母のように孤独に病気を持つ子供の育児をする方を減らしたいと思いました。
2つ目は、
私は子宮がんを患い31歳で子供が出来ない身体になりました。
それは生命と引き換えでした。
そんな中で、自分の子供を産むことは出来なかった人生だけれど
私と同じ口唇口蓋裂をもつ子供たちがこれから大きくなっていく未来の中で
少しでも生きやすい世界を作りたいと思いました。
3つ目は、
少し言葉にするのが難しいのですが
同じ病気を持っている当事者の皆様の中には
私のように家族と病気のことを共有し相談し、支え合うことが出来ずに治療を重ねてきた方がいらっしゃると思います。
家族が支え合うことはとてもとても大切なことです。
でも、笑みだち会の本人の部に来た時に
その環境で生きてきて、やっと辛かったと言える方も居らっしゃると思います。
親御さんも本人も誰も悪くない、必死に生きてきたからこそ抱えた孤独を
一緒に共有して少しホッとできる、ゆっくりと息の吸えるそんな居場所を作りたいと思いました。
ーーそう言った恵里さんならではの経験からの想いがあったんですね。
一つ一つに感謝します。ますます応援させていただきます!
//後編へ続く//
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