30年前、母が言語の先生に宛てた手紙
- 2017年10月24日
- Leonine
だからこそ、今結婚して妻が居て、息子たちのことを一生懸命に育てたい、笑わせたいと思います。
当時は知り得なかった母の気持ち
幼少期、何故?言葉の教室に通うのかは幼いながらもどことなく分かっていたように思います。
「鼻や口」が他の人と違う、だからだろうなと。
それ以上に言葉の教室は楽しかったし待ち遠しかったし嬉しかったです。
先日言葉を教えてくれた恩師に30年振りにお会いしました。
今やっていることは直ぐに結果はでないけど、必ず3年後、5年後に役立ってくると。
焦らない、頑張りすぎない、努力する。
それを忘れた頃にまた会いましょうと。
そんな中、母からある手紙を見せて貰いました。
30年も前の手紙です。
言葉の先生と母のやり取りの手紙です。
今、口唇口蓋裂で悩んでいる方々には救われる、読んでほしい内容です。
振り返って・・・
昭和57年1月13日(水)、2歳9か月から通い始めた指導室です。
四年間でした。
子供以上に私自身が安心する場所でした。
「言葉のことは私達専門家にまかせて、お母さんは精神面のことで子供のことを見てやって下さい」
この言葉を聞いた時、ドーンと方の荷がおりたものでした。
通い始めて、少しずつ発音が良くなってきました。
「か」の発音ができた時はうれしくて、今でも忘れられません。
自転車の後ろに息子を乗せ「からすが鳴いているネ。何て鳴くの?」
後ろに座っている息子は「アー、アーなウんだよ」
それが突然「おかあさん、カラスがカァーカァーないているよ」
「ヤッタ!!そうそう!!カァーカァー鳴くんだよね」
普通じゃ味わえない感激でした。
先生から教えていただいたのは、シャボン玉、ビニール風船を何回でふくらませるか、うがいが上手になったかなど・・・。
長い長いストローも買いました。
先生に、お父さんお母さんお姉ちゃんの名前をつけて作ってもらった発砲スチロールを、テーブルの上で吹いて遊びました。
天井からひもをつるして紙をつけ、どのくらいゆれるか吹きながら練習して、だんだん紙を大きくしながら二人で楽しみました。
いろんなことをやりながら、フッとこんなことで言葉って良くなるのかしらと、時々疑問に思ったこともありましたけど、着実に良くなってきました。
通室の日、本人はいつも遊びに行くような感じでした。
今日は山崎先生と何をしようかな、やっぱりサッカー、野球かな。
先生には泰朋一人の指導で、体力の消耗がひどかったのではと思います。
めいっぱい遊んで帰るから、電車の中はいつもお昼寝でした。
ぐっすり寝てしまって、駅に降りてから、ホームのベンチに座って、寝かせていたこともありました。
いつも行くたびに悩みを持って指導室に行き、いつもいつも先生にアドバイス、解決していただいて、私も心が軽くなって、寝ている子供を抱いている手もあまり重く感じない時間でした。
これから続く、ハンディを持った子供の人生ってどんなかしらと考えると、気が重くなります。
でもあまり先を見ないで、今日一日だけを考えることにしましょう。
先生のおかげで、子供と共に私も少しは成長したように思います。
四年間のこと全部は書ききれません。
先生への感謝の気持ちをここだけで書き尽くすことも出来ません。
いろいろお教えを、本当にありがとうございました。
がんばります。
母から先生に出した手紙を最初に見せて頂いた時は「涙」が出ました。
自分の苦労もそうですが、それよりも母の苦労の方が何倍もだったんだろうなと思います。
こうして今しっかりと地に足を付けて仕事も運動も勉強も出来ているのはその頃があったからだと。
今結婚して妻が居て、長男と双子の息子3人のことを一生懸命に育てたい、笑わせたいと思います。
今少しでも悩みを抱えている人がいたら
悩みは完全に消えないと思います。
でも無我夢中になるモノを見つけることで、障がいのことなんて気にしない世界を見れることができるような気はします。
自分はそれを見つけることができました。
でもそれがあっても辛いことは勿論あります。
だからもっともっと追及したり、探したりしているんだなと思います。
しっかりと受け入れてしっかり発信ができるようになれば大丈夫だと思います。
今はこうして自分の経験を伝えていくことで安心できる人がいるのであれば発信していこうと思います。
それでも38歳になってやっとです。
少し自信がついてきたからだと思います。
そして救いたいとも思ってきたからだと思います。
自分の人生が面白いからなんでしょうね。
ぬま三志
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