無我夢中~其の1~
- 2017年10月23日
- ぬま三志
「障害は理解と協力があれば乗り越えられる。」 自分の会社の会長がよく言葉にします。 本当にそのとおりで素晴らしい言葉だといつも思っています。 ただ、、、やはりそれは発信をしていかないと「理解や協力」を得ることは出来ず、 苦しく、生き難いとも思います。 『口唇口蓋裂』、、、 ドラゴンボールのピッコロ大魔王が出しそうな技の名前ですが、、、 口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)とは、先天性異常の一つであり、 軟口蓋あるいは硬口蓋またはその両方が閉鎖しない状態の口蓋裂と、 口唇の一部に裂け目が現れる状態の口唇裂(唇裂)。 よく分からないですね。 俺もよく分からないです。 でも私は口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)という障害を持って産まれてきました。 ぬま三志:1979年4月2日生まれ38歳。 今40歳を目前に、その障害のことを知りながら、書きながら、人生を振り返って、未来にできること、 進んでみようと今回書いてみました。 悩みましたが、自分自身更に前に進みたいと思いましたので書きます。。。 そして同じ障害で悩んでる方へこんな生き方もあるということが少しでも伝われば良いと思います。 幼稚園、小学校、中学校、高校1年位まではこの障害が原因で酷い言葉も受けてきました。 大人になった今でも大変な時はあります。 手術もしました。 手術は産まれた直後、物心がつく前に2回程。 小学校5年生で1回、高校卒業して1回。 トータル4回から5回を経験したことになります。 小学校5年生の時は形を整える手術でした。 『形成外科』という所に入院したんですが、耳が無いわ、目が潰れてるわの方々が入院していて、 その入院で世の中には色々な人がいると知りました。 みんな何かしらの理由で入院していて、それぞれが理解していて、笑顔で笑っていて、 いじめやら酷い言葉なんて全く無い場所。病院なんで当然ですね♪ だから世の中全部病院にならね〜かなとも思ったこともあります。(笑) だからそんな病院は採血やら検査やら手術以外は本当に自分にとっては良い場所だったなと振り返ります。 ただ夜寝る時はやはり家族と離れ、寂しさもありました。 病院で朝になるのが凄い好きでした。 手術は全身麻酔。 強引に眠らせられる事に恐怖しかなく、手術室で暴れました。 看護師達数人と自分。簡単に押さえつけられて敗北。(笑) 目が覚めたらベッドの上でした。 鏡を見て腫れ上がった顔に特に驚くこともなく、 ち○こに入ってる管が痛すぎるので早く抜いて欲しい気持ちのが強かったです。 今まで生きてきた中で、ち○こに管が入ってるのが1番に痛いと思います。 この手術は将来的に見た目を普通にする為の通過点のようなもんで、 顔が極端に変わることは無かったです。 見た目普通。。。普通って何だよ。。。 これが俺の普通だよ!!!って叫びたいくらいでした!!! この障害は見た目も機能も生きてくうえでは不利な障害かなと思います。 5年生の手術の前にも後にも「歯の矯正」はしていました。 口唇口蓋裂というのは鼻の形、口、口の中、歯に障害があります。 歯も生えない場所から生えてくるので四本位抜いた記憶があります。 抜く時に親父からは泣かなかったらアニメの「聖闘士星矢の人形」を買ってくれると言われ、 クソ我慢してゲットした思い出があります。(笑) あとおそらく口唇口蓋裂の人は「虫歯になりやすい歯」を抱えてるかもしれません。 そんなに歯は強くないと感じています。 これは個人差があるかもしれないけど、俺はそんなに強くないと思います。 (普通どおり歯磨きをしていればOKです♪) 口の中(上部)にも4つ位穴が開いてしまっていて、 ストローやら風船やら水を飲むことなど結構困難になることも多いです。 穴が開いてるもんですから言葉も発し難い。 言葉が鼻から抜けてしまうので、母音が『う行』の『す』と『つ』は非常に言い難いです。 だから小さい頃に言葉の教室にも通いました。 3歳から5歳の記憶で曖昧ですが、『す』と『つ』が言えるまでは大変でしたが、 とても楽しくトレーニングをしたのを覚えています。 そこの先生、指導者は自分の障害のことを理解している方々でしたので できれば毎日でも行きたいと思いました。 トレーニングのおかげで言葉、発音はかなり綺麗になったと思います。 その教室は小学校に上がる時には卒業をしました。 手術や言葉、自分がこうして産まれて父や母はおそらくネットが無い時代で走り回り、 必死になってくれたと思います。 病院を探したり、言葉の教室を探したり、自分に最適で最善を尽くしてくれたんだろうなと。 そして物凄く悩み、悲しみ、迷い、過ごしていたのかなと思います。 そこで両親が辿り着いた結果が、、、 『とにかく外に出そう!!!』と聞かされたことがあります。 外に出るもんですから色々な人に会って、色々な経験をして、 良いことも嫌なこともたくさん経験して、自分なりにたくさん考えて答えを出していったように思います。 スゲー小さいなりにスゲー考えていたと思います。全て微力なんですが。(笑) 小学校の1年生の時に初めての『イジメ』を真に受けました。 2人〜3人に帰り道に毎日キツイ言葉を受けてました。 これは本当にキツイな〜と感じました。 考えました。 笑って済ますか、喧嘩するか、逃げるか、戦うか、 小1年生の無い頭で自分にとってはドラゴンボールのベジータが現れた時と同じくらいの緊張感。 (ドラゴンボール好きだな!) 残念ながら自分ではどうしようもなく母に助けて貰いました。 『キツイことがある、助けてくれと。』 そう伝えたと思います。 後の人生にもキツイことはありますが、 障害のことでイジメや酷い言葉をぶつけてくる連中から助けて貰ったのは、 多分これが最初で最後だと思います。 本当に助かったことを今でも鮮明に覚えています。 父は、先ず自分で乗り越えてみろ、無理なら言ってこい。 何だかその言葉にはおそらく自分にハンディーがあると父は感じていなかったんだと思います。 自分なら、俺ならできると父も母もずっと思ってくれていたんだと思います。 自宅のソファーの上に立ち、俺は乗り越えると両親に向けて手紙を読んだことがあります。 母は泣いていました。 そこで俺は負けないと決意したんだと思います。 障害のことではありませんが、小学校6年生の夏、8月4日に父が胃癌で亡くなりました。 おそらく4年生の時ぐらいから病に侵されていたと思います。 入院中母はずっと付き添いで、姉と祖母と3人で生活していた時間を思い出します。 父はスポーツができ、頭が良く、厳しく、優しく、面白く、憧れでもありました。 病気のことは聞かせれてなく、最後の最後まで治ると信じていましたが、、、哀しいです。 命を測るメーターのピーという音が嫌でした。 父の死もやはり乗り越えていかなければならないことでして、 書いておきたいことでしたので書かせて頂きました。。。 戻りましょう。 学年やクラス、新しい環境になる度に色々と言われましたが、 私自身恵まれ生まれ持った『運動神経』が良く、体育の授業でみんなを黙らせていた記憶があります。 短距離、長距離、ドッジボール、小学校の頃は無敵でした。 また公文をやっていて、数字がめっぽう強く、計算高かったです。(笑) ただ、その能力が中学校では裏目に出てしまったんですね。。。 中学校に入り、先輩より長けていたので先にユニホームを貰い、試合に出てしまった思い出があります。 中学校からは上下関係の先輩後輩というモノが付きまとうので、 目を付けられ呼び出され、障害も含めてキツイ思いをしました。 高校へ入学し、やはり「変化」する時は「大変」なものでした。 でもとにかく黙って、勉強と部活の両立を必死にして勉強では学年トップになりました。 (学校のレベルはそこまで高いものではないですが、、、(笑)) それでもトップになれば、何かを言ってくる奴らも認めてくれるもので、 自分に勉強を教わりにくるようにもなり卒業するころには大の仲良しになりました♪ 大変な時期が都度都度訪れる自分に、メンタル的におかしくなる時はたくさんありました。 それでもやはりその時が1番に「大きく変われる」時、自分なりに努力をして、 人の気持ちをも考えさせてくれる時期でした。 そして「負けない」そんな気持ちを持たせてくれたと思います。 ただ、高校時代はそんなことよりもメチャクチャ厳しい生活を送っていたので、考える暇も無かったです。。。 (そのことに関してはまた後ほど。。。) 高校を卒業と同時の春休みに機能的な部分を治す為に自身認識してる中では2回目の手術をします。 この手術に対しては猛烈に反対というか、反抗というか、嫌でした。 高校時代の仲間と過ごすラストの春休みを病院の中で過ごさないといけない。 大学の練習にも行けない。それでも入院でした。まだよく理解できない中での入院。 何も楽しいことはなかったです。。。 全身麻酔は5年生の時の思い出が蘇り、トラウマになってました。 機能的なモノの手術なので顔が変わるということもなかったです。 とにかくち○こに入ってる管は相変わらず猛烈に痛かったです。(笑) この「機能的な手術」、これは非常にキツイものでした。 前に記載したのですが、口の中の上部に4つ穴が空いてます。 その4つの穴を塞ぐ為に、腰の骨を削り、そこにその骨を埋めて、舌でカバーをするんです。 舌を上口にくっつけて、後に切除するという、聞いてて、書いてて、イテテテな感じですね♪ 1週間くらい食事は摂れず、流動食で過ごしました。 舌と上口の切除の時は局部麻酔で意識がある中で行ったので恐ろしさはなかったです。 局部麻酔が自分には合ってるんだと思います。(そんな人もあまりいないみたいですが。) 切除して、4つの内の2つが塞がりました。 おそらく残りの2つも塞がらないといけないモノだったんでしょうが、問題ないです。 と言って、医者もまた次回だな。みたいな雰囲気で。。。 この手術で腰の骨が削られているので、運動できる体に戻るには約1年以上掛かりました。 何となく体のバランスも悪く、力も入らないといった状況を騙し騙しで生活していました。 大学生活は、取り囲んでくれたメンバーが最高で、先輩方も大人で本当に可愛がってくれて、 付いてきてくれる同期、後輩がいて、あまり今までに感じれなかった楽しい時間を過ごすことができました。 おそらくきっとこの段階であと1回~2回は将来的に手術をしないといけないんだと思いますが、 しなかったです。 大学3年生の終わりの就職活動の話をさせてください。 不景気真っ只中、就職氷河期のど真ん中を進んでいました。 60社を受けて最終面接に行ったのは3社、内定は1社でした。 今考えると「見た目」という問題はあったんだろうな~って思います。見た目で落とす。 今考えるとですよ。ですので当時はあまり思わなかったので良かったなと思います。 内定の1社はそれはそれは優良企業で、将来絶対安定の有名企業でした。 誰もが知っていて、誰もが毎日お世話になってるモノを製造してるメーカーでした。 ただ、仕事内容、人間関係、小学校、中学校、高校、大学と歩んできた中でワーストに入るくらいの環境 だったと思います。障害のことをとやかく言う人は全くいませんでした。 そうではなく、ただただ色々なことがきつかったです。(笑) その企業には10年勤めて、転職しました。10年間、手術もしていません。 母親はもう1回という思いもあったと思いますが、これはもう自分が決断したことです。 (この決断がおそらく、ここまでのことを書きたかったという思いにしたんだと思います。) そのことも含めて、また書いていきます。 この障害を乗り越えられた「無我夢中」になれたモノ。 自分にとって人生であり、宝であり、本当に大事にしているモノ。 手術をしないと決めて、これで生きていくと決めたモノ。 そのことについて、これからまた書いていきます。是非お付き合いください♪
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